ESSAY

ラフマニノフ 祖国への愛

文:尾崎 晋也

花には必ず根がある。そして力強くしっかりとしたものに育てられてこそ、美しく咲くことができる。

作曲家にして指揮者、ピアニストであるラフマニノフの生まれたロシアほど民族的な誇りを音楽に求めた国はない。19世紀後半のロシアの音楽には民族性がはっきりと現れるようになる。ロシアはヨーロッパ社会の全てを洗練させたといってもいいルネッサンスを経験していない。ラフマニノフの先人、ボロディン、リムスキー=コルサコフ、その他の作曲家たちは、民族の歌、踊りからインスピレーションを得た。時には不揃いなリズムを持つ農民の音楽さえも取り入れたのだ。このような土壌の中でうまれたラフマニノフの音楽の中にも土臭いロシアの声が聞かれるが、後期ロマン派の成熟した和声で書かれているのでひときわ美しい。音楽的にも無調などの新しい試みがもてはやされる時代に、ラフマニノフは古い価値観の音楽の中にロシアを描いた。時代遅れとも批判されたが、信念の美学を貫いたともいえよう。

そのラフマニノフは人生の3分の1以上をロシア国外で亡命者として生きている。彼自身を公的に証明できるものが無く、長く「ナンセン・パスポート」のみであったことはあまり知られていない。これは、ソビエト連邦政府が1921年に在外ロシア人の国籍を剥奪すると発表し、急遽、当時の国際連盟の難民高等弁務官ナンセンが考案した「難民」のためのパスポートだ。

さかのぼると充実した時期に作曲された交響曲第2番でさえも1905年「血の日曜日」以来のロシアの混乱を避け、主にドレスデンで書かれている。

ロシアに住んでいる時、地主であるという理由だけでラフマニノフの愛犬は周囲の農民に殺されてしまった。ラフマニノフはこのことで心を痛め、それがある大きな予感にもつながった。

1917年、2月革命が起こり、ロシア帝国崩壊。

そして、その年のクリスマスイブは特別なものになった。ラフマニノフは家族と共に愛するロシアに別れを告げたのだ。18年の11月にはアメリカに移住する。かつて膨大な数のロシアからの移民がきたニューヨーク湾内にあるたった一つの通関港、エリス島。ラフマニノフも様々な思いを抱えエリス島に到着した。その後、他のロシアを出国した芸術家と同じように、彼の作品はソ連で演奏禁止となる。

アメリカで大活躍するラフマニノフが胸中を打ち明けたインタビュー残っている。

「年齢が両肩に重荷としてのしかかっているのです。若い頃には知らなかったほど重く、それは私が国を持たない故でしょう。私は、自分が生まれ、苦闘を続け、若き日の悲しみの全てを体験し、ついに成功に築いた国を去らなければいけなかった。現在、全世界は私の前に開けているし、どこに行っても成功が目の前にあります。しかし、一つの場所だけが私に閉ざされているのです。それは私の祖国ロシアなのです。」

ラフマニノフについて書かれているものは多くない。それは、気難しい性格と思われ、記者や作家が寄り付くことができなかったからだろう。実際の彼は親しみの持てる好人物だった。それは、よく知っている身内、ロシア人の間だけの話である。アメリカの人々は、ラフマニノフがいつも人と食事することをキッパリ断るのを全く理解できなかった。常にアメリカではカメラマンに追いかけられ、食事もろくにゆっくりできなかったからだ。演奏中もカメラのフラッシュで集中力を遮られたことも多くあった。これが彼が写真で難しい顔をしている原因である。

生前、ラフマニノフは死を病的に恐れていた。肝臓と肺のガンが全身に転移したが、家族の最後の愛は彼に病名を伏せることだった。亡くなる前でも、彼の心は常に二つの場所を行き来している。それは、今いる異国の「こちら側」の人と「向こう側」、つまりロシアに残っている人に対してである。さらに、第二次世界大戦中のロシアの状況は常に彼を不安にした。ロシアはドイツに負けるのではないか、という思いにとらわれ、絶望感に襲われるのだ。

ラフマニノフはアメリカ市民として亡くなった。その死の56日前に市民権を取得したのだ。皮肉にもソビエト政府が70歳を祝う祝電を送った時には危篤状態であったという。誕生日前に早手回しに送られたものは、連合国とソビエト政府の友好をアピールするだけのものであり、実際にはラフマニノフの作品はソ連では解禁になってはいなかったのだ。

ラフマニノフは第二次世界大戦の混乱のために生前希望していたモスクワに埋葬されず、今もニューヨーク州の墓地に眠っている。そこには祖国のライ麦のささやきを聞くこともなく、白樺のざわめきもない。妻が彼の遺骸をいつかロシアに帰してほしいと願い、棺は亜鉛で作られた。国際法では、衛生上の理由から遺体を亜鉛製の棺に安置し、はんだ付けで密封した上から、外装用として木材の棺を使用しなければ国境を越えることができないからだ。